松原ぼたん
「うわー」
そう叫んだきり、いつも騒がしい少女は黙り込んだ。
あたりは一面の花霞。薄紅の桜。時折吹く風が花びらを散らし、運んでゆく。
「どうしたんだリナ? 腹でも痛いのか?」
横でそういった彼女の自称保護者は即座に殴られていた。
「あんたねぇ、あたしが桜に見とれてたら病気だって訳!? まったくデリカシーがないんだから」
それだけでは気がすまなかったらしく彼女はぶつぶつと文句を言う。
「ねえ、ゼルもそう思うよね?」
やれやれ、こっちにまで矛先が回ってきたか。
苦笑する。
「そうだな。いくらなんでもひどすぎるな」
「でしょでしょ。ほらやっぱりガウリイが悪いのよ」
意を得たとばかりに少女はさらに言い募る。まったく、子どもの喧嘩だな。
「と・に・か・く、あたしは桜を見るんだからガウリイ、邪魔しないでね」
言い残すなり少女が駆け出した。髪の毛の栗色が桜と混じり、やがて見えなくなる。
「あらら・・・・ま、いいか」
言うなりガウリイはその場に寝転がった。すぐに寝息を立て始める。
まあ、この陽気だ。旦那でなくとも眠くなるというものだろう。
何をしていいか分からず、とりあえず俺もその場に腰を下ろした。
はらはらと花びらが散ってゆく。
随分と久しぶりに桜を眺めたような気がする。
春は何度も巡ってきた筈なのに。
風か吹く。
髪が風になびかなくなってから、いや、それ以前からこんな穏やかな気持ちは忘れていた。
目の端に少女が映る。どうやら帰ってきたらしい。
視線を向ける。
ずっと走っていたのかもしれない。頬は上気し、髪には幾つもの花びらが絡みついていた。
「あれ? ガウリイ寝てるの?」
さっきの出来事を忘れたようにガウリイの顔を覗き込む。その拍子に花びらが一枚落ちた。
昔聞いた物語の、花の精霊とはこんな風だったのかもしれない。
ふとそう思い苦笑する。
「髪に花びらがついてるぞ」
「そう?」
少女はほんの少し笑って花びらを取り始めた。
「取れた?」
「いや」
一つ花びらが残っていた。何気なく手を伸ばしてとろうとし――躊躇う。
「? どうかした?」
心底不思議そうに問われ、俺は再び苦笑した。花びらを取る。
この少女がそんなことを気にしないということは分かっていたはずなのに。
「リナ」
彼女の名を呼ぶ。
「なに?」
「・・・・いや、何でもない」
その一瞬の、一欠の花びらにも似た感情をなんと呼べばいいのか。
俺はまた、思い出せていなかった。