松原ぼたん
その日は月夜で、陳腐な表現ではあるが、まるで血を吸ったように朱く、大きな満月だった。
盗賊いじめが終わり、何気なく空を見上げたあたしは、それに魅入られたように視線をはずすことが出来なかった。
ふと、その前に影が落ちた。
「今晩は、リナさん」
聞き覚えのある声に我に返る。
「何か用? ゼロス」
自分のペースを取り戻そうと、あたしはゆっくりとそういった。
「今晩は、リナさん」
ゼロスはもう一度同じ言葉を繰り返した。多少距離がある上に逆光なのでその表情は見えないが、おそらくいつもと同じ笑顔を浮かべて。
「それで、今度は何を企んでるの?」
その影にむかい言う。
「いやですね、企むだなんて」
ゼロスがひょいと肩を竦めた。
「僕はただ命令に従っているだけです」
「どーだか」
とりあえず小声でそうつっこんでおいてから、あたしは再びゼロスに問う。
「なら、今度はどんな命令に従っているわけ?」
てっきりいつものセリフが返ってくるかと思ったが、ゼロスは何も言わず、ただこっちへ近づいてきた。
「リナさん、どうかこれだけは覚えていてください」
ゼロスと目が合う。
いつもの笑顔じゃなかった。
「僕が本当に望むことは唯一つ、貴女が貴女でいることだけなのです」
正直、ゼロスの言っている事の意味が分からなかった。
けれどそれを問うことは出来なかった。
そうしようと口を開きかけた瞬間、覚醒が始まったのだ。
あたしの中の赤眼の魔王の。
それがゼロスのせいなのかどうなのかは分からない。
ゼロスはここに赤眼の魔王を迎えに来たということだけはおそらく間違いないだろう。
それから後のことは薄ぼんやりとしか思い出せない。
おそらくあたしの自我と赤眼の魔王の意識が戦っていたからだろう。
ただゼロスがあたしをその場から連れ出し、ここ──群狼の島へ送ったことだけははっきりと覚えている。
なぜあそこまで迅速に動いたのだろうか?
レゾの時のことから考えて、連れていくことがもっとも最重要事項とは思えない。
あたしがガウリイと会うことで魔王としての覚醒を妨げられるとでも思ったのだろうか?
或いは・・・・錯乱状態のあたしがガウリイを殺すのを防ぐためか。
あたしは後者の様に思えてならない。
そう、最終的に勝ったのはあたし──リナ=インバースだった。
体こそ魔族のそれに近づいたものの、あたしはあたしだった。
そのことは誰にも言っていない。
ゼロスにも。
『僕が本当に望むことは唯一つ、貴女が貴女でいることだけなのです』
もしあたしが元の生活に戻りたいと言ったら、ゼロスは手を貸してくれるのだろうか?
自分の創造主や、北の魔王を裏切ってでも。
今日もその問いが発せられず、あたしは一人夜空を見上げていた。
あの朱く大きな月は、すでにその存在を隠せるほどに欠けてしまっていた。