水鏡1

風姫 翠


「―――天空を貫く、一条の矢を与えん!!」

 

 あの時、リナでさえ一瞬躊躇した。異界の魔王を、そして彼の者と融合したヴァルガーヴを滅ぼすことを。長い旅の中で、本当に悪いのは彼ではないと気づいていながら、彼女 らには彼を倒すしか選択肢はなかったのだ。

 

全てが終わった後、誰も其処を動こうとはしなかった。決戦の地となったヴァルガーヴの故郷は彼の手で消し去られ、厚い雲に覆われていた空はどこまでも澄んだ青空となった。何千年ものあいだ凍りついていた大地が太陽の光に照らされ少しずつ解けてゆく。水の流れる音を聞きながら、彼女らはただ待ちつづけるかのように座り込み、

空を見つめることもできずにうつむいていた。

 

 だが、ついに彼は戻っては来なかった。

 

 

 

 

 

「―――行きましょうか」

 

 長い沈黙の後、最初に立ち上がったのはやはりリナだった。

 

「リナさん・・・」

 

 フィリアの肩を抱くアメリアが戸惑いを含んだ目でリナを見上げる。

 

「『フィリアさんの気持ちも考えてください』とでもいいたいの?そりゃあたしだって分かるわよ、でもねえ、あたしたちは人間なの、命短い人間がドラゴンの感傷になんか付き合ってたらあっという間に死んじゃうでしょうが!!ほら行くわよ皆、立ちなさい!!

 

 フィリア、あんたもよ。どーせ行くところないんでしょう?」

 

「おい、待てよリナ・・・」

 

 さっさと踵を返して春泥を力強く踏みしめるリナの後をゼルガディスとガウリイが慌てて追いかける。その後ろにアメリアと彼女に支えられたフィリアが続く。

 

 小さくなってゆく5人の後ろ姿を見つめるゼロスは、いつもと同じ、薄い笑みを浮かべているだけだった。

 

 

 

 

 

 一番近くの街に辿り着いたのは、それから7日目の午後だった。同族から追われた古代竜がどれだけ辺境に身を隠していたか―――、それはこの距離とどことなく寂れたこの街の様子から見て取れる。行きはフィリアの背に乗り鉱山の町から一気に飛んできたが、今回は誰もそれを提案せず、あの地に後ろ髪を引かれながら思い足取りでここまで来たのだった。

 

 目に付いた宿に飛び込み、とりあえず遅い昼食を摂ることにした。

 

「あーあ、まさか7日も歩き続けなんて冗談じゃないわよ。ご飯ご飯♪なーに食べようかなー♪」

 

 メニューに噛り付いているのはリナだけで、ゼルガディスとフィリアはともかくガウリイとアメリアまでリナをぼんやり見つめているだけである。

 

「―――何よ・・・いつまで沈んでりゃ気が済むのよあんたら!!いくら考えたって死んだものは帰ってない!!フィリアはともかくとして・・・ガウリイ、ゼル、アメリア、あんたらは分かってる・・・はずよね」

 

 リナの問いかけに3人は沈痛な面持ちで頷く。確かに、今まで数え切れないほどの死を見届けては来た。死んで当然のものも、何故死ななければいけないのか、というものも。

 

「確かに・・・私には分からないでしょうね・・・。私は巫女の名のもとに胡座をかき、見たくないものには目を瞑ってきたのですから。―――でも・・・」

 

「おばちゃーん、Aランチ3人前!!早くねー!!」

 

 フィリアの言葉を全く無視し、リナは手を上げて料理を注文する。ガウリイたちもつられるようにいつもの半分以下の料理を頼む。

 

「フィリアは何にする?今日はあたしらがおごってあげるからさー、10人前でも20人前でもどーんと頼みなさいよ!!」

 

「―――食べたくありません」

 

「食べなきゃその足で歩くこともできないわよ。あんたはただでさえ体ひとつでなんとか生きていかなきゃならないってのに。

 

 そうよ、フィリアこれからどうするつもり?バカなことしたわね、ヴァルガーヴのために巫女を捨てたりして。あたしの知り合いに一匹黄金竜がいるけど・・・」

 

「いえ・・・火竜王を信仰の対象としている黄金竜は私たちの一族のみ。たとえ私が巫女を捨てなかったとしても、私が信ずべき神などもうありません」

 

「おいフィリア・・・いくらなんでもそれは間違っているんじゃないか。お前が巫女であったころ、火竜王こそがお前のアイデンティティだったことは事実だろう?」

 

 フィリアの非情とも自虐ともとれる言葉に、たまらずゼルガディスが割って入る。

 

「信じられるものなんて・・・本当は何もないんです。信じられてこそ神は神として存在し、恐れられてこそ魔は魔として存在できる・・・結局、正しいものなんて何もないんですよ」

 

「そんな・・・!!」

 

 正義を信じるアメリアにとってはショッキングな言葉だったが、フィリアの落胆ぶりを痛いほど見ている彼女は反論の声を押さえる。しかしリナはカチンと来たらしい。

 

「そう・・・。じゃああんたはこの先、あらゆる物に背を向けて、何も信じずに罪だけを感じて死ぬのね?―――ふざけんじゃないわよ!!」

 

 リナが声を荒げ、3人はびくんと身を震わせたがフィリアは身じろぎひとつせず、視線もリナを見ているようでどこかあさっての方にある。

 

「それじゃあフィリア、あんたはどっかの誰かさんみたいに自分の本音を隠しつづけて、死者の遺志ばかり背負って、他人のために死ぬだけなのよ!!分かっているの!?

 

 あいつはバカだったのよ!!他人のためなんかに死んだって誰も救われたりしないのに・・・フィリアなら分かるはずよ!!ねえ!!」

 

 リナの懇願にも、フィリアはまるで耳を貸そうとはしない。

 

「―――世間知らずのお嬢さんもいい加減にしなさいよ・・・!?」

 

はっ、とフィリアが顔を上げた。その双眸からは大粒の涙がこぼれ、驚いたリナは思わず自分の口元を両手で覆う。

 

「フィリア、さん・・・?」

 

「―――ゲートの真下、ヴァルガーヴがダークスターを召喚しようとしたときのことを、覚えていますか」

 

「何言ってるの、フィリア・・・」

 

「あのとき、私はヴァルガーヴと話がしたい一心でリナさんたちより先に彼のもとにいったでしょう?

 

 私はまだヴァルガーヴが語った黄金竜族の血塗られた過去など信じてはおらず、ただ、火竜王様をアイデンティティとしていました。そんな私に、あの人は言いました。『世間知らずのお嬢さん』と。

 

 彼の目は私への侮蔑と、憐れみと、そして羨望が入り混じり、黄金色だったはずのそれは赤味がかって見えました」

 

 止まらない涙を拭おうともせず、フィリアは淡々と語ると静かに席を立った。

 

「―――失礼します」

 

「ちょ・・・ちょっと・・・!!」

 

 リナが叫ぶと同時にフィリアは駆け出し、部屋へと閉じこもった。

 

 まだ空高く昇っている太陽の光に満たされた部屋はフィリアの心を変えられなかった。乱暴にカーテンを引き、フィリアはベッドに泣き崩れる。

 

 覚えている。はっきりと、息遣いまでも覚えている。彼の声。低くハスキーな、怒

りと苦しみを押し殺した血を吐くような声だ。

 

 ―――さもなくば・・・?言ってくれるな、世間知らずのお嬢さんよぉ。

 

 ―――お前に、俺は裁けねえよ。血塗られたお前ら、ゴールドドラゴンの手じゃなぁ。

 

 ―――もう帰んな、お嬢さん。

 

 ―――殺しゃしねえ・・・お前の手でこの世界を終わらせるんだ・・・。

 

 止まらない。止まらない。彼の声を聞いたのは、彼と言葉を交わしたのは数えるくらいしかなかったというのに、記憶の中にそれらすべてはしっかりと根付き、永遠に繰り返される。

 

「ヴァルガーヴ・・・」 

 

 彼の名を呼ぶ時は、いつも絶望の淵に立っている時だった。だけど・・・まったく救いがない訳ではなかった。今とは違って。

 

 

 

「―――世間知らずのお嬢さん、か・・・。ヴァルガーヴも言ってくれるわね」

 

 運ばれてきた料理に誰一人手をつけようとはしない。

 

「悲しいのはフィリアだけじゃないってこと・・・分かってほしかったんだけどな・・・」

 

 冷めてゆくスープに自分を映すとリナは大きく溜め息をつき、その表面に波紋がひとつ生まれた。ひとつ、またひとつ。真っ先に気づいたガウリイは、彼女の肩をぎゅっと抱きしめる。細い肩が、ふるふる震えている。

 

「・・・あたし・・・っ・・・・・ガウリ・・・・」

 

 ガウリイの服を握り締め、リナは彼の胸板に顔を押し付けた。涙を、嗚咽を、止めることができない。

 

「お前さんも、ずいぶんつらい立場だったな」

 

 背中をなでながらつぶやいたガウリイの一言に、リナはついに声をあげて泣いた。

 

「リナさん、ごめんなさい・・・リナさんも辛いんですよね、でも、私たちを叱咤するために・・・」

 

 はじめて見る、人目もはばからず泣きじゃくるリナの姿にアメリアは驚愕し、彼女も涙を拭う。

 

「・・・あたし・・・この手で・・・あ・・・あいつを・・・。ま・・・だ覚えて・・・っ。あいつ・・・笑ったのよ・・・・。殺され・・・ってのに・・・なんで・・・!!?

 

 ―――ヴァルガーヴの・・・バカヤロー!!!バッカ・・・ヤロ・・・」

 

「リナ・・・」

 

 拳でガウリイの胸を叩き、それっきり動かなくなったリナにガウリイが躊躇いがちに声を掛ける。

 

「何?」

 

「・・・へ?」

 

 ぱっと顔をあげたリナは涙の跡すらなく実にさっぱりしていて、逆にガウリイの方が驚いた。

 

「あー考えてたら何かムカってきたわー。大体なんであたしがヴァルガーヴのために泣いてる訳!?ヴァルガーヴよヴァルガーヴ!!あんなエロ腰が死のうと生きようとあたしの知ったこっちゃないわ!!あームカムカするう!!おーいおばちゃん!!Aランチ3人前追―!!」

 

 ちいっご飯が冷めてる、とぶつぶつ言いながらも料理をほおばるだけほおばるリナを3人はぽかんと見つめ―――そのリナらしさに苦笑するとそれぞれいつもどおりの食事を開始した。一人分の空席が、やけに重くはあったけれど。

 

 

《続く》