チカラ

松原ぼたん 


 ヴァルは力の限り走っていた。
 足がもつれたのか、あるいは何かにつまずいたのかその姿勢が前のめりになる。
 倒れる。
 辺りが大半は枯れているとはいえ草地だったためと、まだ体重が軽いため、そして厚着をしているのと体が柔らかいためその衝撃は思うよりは軽い。
 けれど少年は起き上がらない。
 仰向けになり思いだした様に荒い息をはく。視界が白く染まり、潰された草の匂いが鼻についた。
「ちくしょう」
 やつあたりの様に手が届く場所の草をちぎる。掌に小さな切り傷ができているのが見えた。それでもやめない。
「力が欲しい」
 けれどそれは走り続けるためのものではないのであろう。
 彼はその場から動かない。
 その代わりとでも言うように手から離れた枯葉がふわりと風に乗り飛んでいった。

 話は少し前に遡る。
 ヴァルはいつものようにフィリアと買い物に出かけていた。
 いつものように品ぞろえを見て、夕飯のおかずを決め、しっかりとデザートまで買い、後は帰るだけという何もかもいつも通りの時間が。
 突如、壊れた。
 一台の暴走馬車がいた。
 それ自体はヴァル達の近くを通っただけで直接ぶつかる位置ではなかった。
 ただかすめるようにして近くの木箱を倒して行った。
 不幸だったのはそれが隣の木箱を巻き込んだこと、隣の木箱が積み重なっていたこと、積み方が不安定だったこと、その高さがヴァルの頭を超えていたこと、そしてそれをかばったフィリアが不自然な体勢になったこと。
 無論、この程度では黄金竜である彼女は死なない。実のところ空箱だったせいもあり、怪我らしい怪我もしていない。せいぜいすり傷程度だ。
 ただあまりにもとっさすぎたため、フィリアはしばらく現状を考えることに費やしてしまった。
 我に返りヴァルの方を見ようとしたが、体勢が崩れていたためいつもより箱をどけるタイミングが遅れた。
 それはわずかな時間だったのかもしれない。
 けれどその間ヴァルの目に映っていたものは――。
 箱のすき間から見つけたヴァルはすでに身を翻して走りだしていた。
 実のところ彼がそこを去った理由はいささか予想とは違うかもしれない。
 確かに恐怖もあった。混乱もあった。
 自分に向かって落ちてくる箱、つき飛ばされた感触、たたらを踏んだ足元に見えた白い腕。なのに振り返っても箱に隠されれ見えない顔。
 もう一人の自分は子供らしくもなく冷静だった。これで死ぬことはないことも分かっていた。
 それでもフィリアが自分をかばった結果がこれであり、かばわれたのは自分が弱いからだということを思い知らされたことには変わりない。
 いつもフィリアを守りたいと思っていた。
 それは恋愛感情と呼ぶには幼く、それゆえに純粋な思い。
 けれど現実にはフィリアの目線に自分から合わせることはできなくて、力も弱くとても達成できているとは思えない。
 それはある意味今は当たり前のことで、だからこそ近い将来の目標になり、そうやって折り合いをつけていた。
 けれど事故があったのは今で。守るどころかかばわれて。
 今までもかばわれたことはあっただろうが、ここまで明確に生命にかかわったことはなくて。
 そうさせたのは力のない自分。
 ヴァルは力のない自分から逃げたいと願ったのだった。

「力をあげましょうか」
 ようやく収まり始めた息の間にそんな声が聞こえた。
 まぶたの上に影が落ちる。
 ヴァルはのろのろといつの間にか閉じていた目を開いた。
「ゴキブリ魔族」
「ゼロスですってば」
 法衣姿の影より黒い存在が立っている。息の白さが見えないのが何よりも異質で、その癖に冬景色と溶けあっている。
「まったく、僕が近づくと教育に悪いとおっしゃるわりに、その呼び方を改めさせないのはなぜでしょう」
 そのセリフを聞き流しながら片手をついて起き上がる。掌に走る痛みにいまさらながら顔をしがめる。
 それでも見下ろされているという事実が今日はしゃくに触る。そこまで身長が伸びるまでどのくらいかかるのだろうと考えてからようやく口を開く。
「力をくれるだと?」
「ええ」
 相変わらずゼロスは真意の読めない笑みを浮かべている。
 それさえあればフィリアを守れる・・・・?
 普段ならフィリアの教育の甲斐あって、そんな、特にゼロスの提案には乗らないだろう。
 けれど今はものすごい誘惑だった。それさえあればフィリアを守れる、それさえあればフィリアから離れなくていい、それさえあれば自分から逃げなくていい、それさえあれば――。
「どうなさいます?」
 それさえあれば・・・・。
「俺は・・・・」
「何をしてるんですかゴキブリ魔族っ!!」
 遠くから響いた声は聞き間違えようのないもので。
「保護者のご登場ですか。では返事はまた改めて」
 言うなりゼロスは姿を消す。
 入れ替わるようにフィリアが走ってくる。
 いつもならあまり考えられない乱れた髪形と汚れた服で、あれからすぐ自分を探していたことに気づく。
 その事実とゼロスが残した『保護者』という単語にさらに落ち込む。
 もう一度、今度はフィリアから逃げだしたくなったが、きつくつかまれた肩に阻まれる。
 合わせたいと願った視線がいたたまれなさを増幅させる。
「怪我してたり、変なことされてたりしない?」
 無言で頷くと、フィリアはヴァルを抱きしめた。
 少し恥ずかしいけれど、温かくて安心できる大好きな場所。
 けれど今は居心地が悪いだけ。
 大好きなのに今は側にいたくない。
 どうすればこんな気持ちは消えるのだろう。
 ――力さえあれば・・・・。


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