夏影

松原ぼたん 


 「ヴァルー」
 フィリアの声に呼ばれた主は振り返る。遠い上逆光なので顔は見えないが間違
えるは
ずがない。
「そろそろ帰ってきなさーい」
「もうちょっとー」
 返事はするものの一向に戻る気配のないことにため息をつく。
 とはいえずいぶんと日も長くなり、梅雨の中の久しぶりの晴れ間とあっては外
で遊び
たがるのも無理はない。
 そうほんの少し妥協しかけたときだった。
 ヴァルの影が長く伸びていた。
 まだ明るいとはいえそれでも夕方だ。それ自体にはなんら不思議なところはな
い。
 ただその形に、いつもは見過ごせるふりをしている面影を見てしまった。
 今のヴァルじゃなく、あの時の、あるいはこれからのヴァルを。
 とっさに引きとめなければと思ったのは過去に対してなのか未来に対してなの
か。
 そしてどうやって引きとめるのか。影踏みのように簡単にはつかまえる方法が
わから
ない。
 そして何より引きとめることは正しいことなのか? それがわからない。
「フィリア?」
 だまり込んだのを不審に思ったのか、怒っているとでも思い込んだのか、いつ
の間に
か近くに来ていたヴァルが顔を見上げていた。
「なんでもないわ」
 今のヴァルがあの影に届かないのを確かめ、やっと笑顔を作る。
 それでも違和感はぬぐえなかったのだろう、ヴァルは無言で手を伸ばしてきた。
「帰りましょう?」
 帰るのは同じ家で。
 あのヴァル今は影の中にしか存在していないけれど。
 それでも手の温もりは何よりも救いだった。




掲示板