刹那

松原ぼたん 


  湖は静かに佇んでいた。

 よく磨かれた鏡のように天上の星々を写している。

 ふと気まぐれに吹いた風が水面を揺らし、光が瞬いた様に見せる。

「何をしてるんです、リナさん?」

 それを憑かれたように見つめている人影に、ゼロスはそう声をかけた。

 リナが振り返る。

「この辺りには盗賊はいませんよ」

 言葉を冗談で続けたが、リナはそう取らなかったのか。

 無言のまま向きを変え、再び星の瞬く水面を見つめ始めた。

「怒ってるんですかリナさん?」

 そうではないという確信をもっていながらもそうたずねる。

「・・・・そんなんじゃないわ」

 或いは彼女のその言葉が聞きたかったのかもしれない。

 どうという言葉でもないのに。

「なら、何をしているんです?」

 ツと歩を進め、リナの隣に立つ。

 同じように湖を眺めながらリナの言葉を待った。

「・・・・あたしが、湖を見ていたい気分になったらおかしい?」

「いいえ」

 やや予想外の言葉だったもののゼロスは即座に否定した。

「そう」

 言ったきりリナはまた黙り込んだ。

 再び吹いた風が、湖の光を揺らし、辺りの木々をなでる。

 そのざわめきが沈黙をより一層寂しげなものへと変えてゆく。

「・・・・ねぇ、知ってる?」

 口を開いたのはリナだった。

「何がです?」

「この湖に出るという恋人たちの幽霊の話」

 ああ、とゼロスはほんの少し顔に浮かべた笑みを強める。

 近くの村での話だ。リナたちが聞いた話をゼロスも精神世界面で聞いていた。

「そこまで、誰か人を好きになれると思う?」

 独り言の様にリナは呟いた。

 返事をしていいのかどうか少しと惑う。

 その話とはこうだった。

 昔、この辺りのロードの姫君がこの辺りの視察について来たとき、そこの青年と恋に落ちたという。

 身分違いと反対され、姫は城を抜け出した。

 駆け落ちでもする気かと家来が探してみると姫と青年の死体が湖に浮いていたという。

 心中したんだと人々はうわさした。

 そしてその幽霊が湖に出るのだと。

 よくあると言えばよくある話で、それだけでリナがセンチメンタルになるとも思えない。

「リナさんはそう思ったことはないんですか?」

「昔はね。けど、今はほんの少し分かる気がする」

 らしくないわねとリナは少し微笑う。

 誰をそれだけ思っているのだろうと思うと、ゼロスはほんの少し心が痛んだ。

 リナの言葉ではないか、昔は知らない感情だった。

「・・・・けど、幽霊になるぐらいなんだから死んでもきっといいことはないのよね、多分」

 その言葉にゼロスは答えられなかった。

 今となっては真実を知るものはいないであろう。その幽霊と・・・・ゼロス以外。

 一緒に死んでいたという青年などいなかったのだ。

 その時ゼロスはとある極秘任務でその村に潜んでいた。一人の青年になりすまして。

 姫君にみそめられ、人間ならば権力に目が眩むだろうと恋愛ゴッコもやってみた。

 どこまでも純粋な彼女の想いは常に彼を苛立たせた。

 或いはそれが欲望であったなら悲劇は起こらなかったのかもしれない。

 任務を済まし、潮時とばかりに別れをつけた。

 それをどう誤解したのか・・・・或いは彼女の意志か、ついてくるといい、実際に城を抜け出した。

 そして待ち合わせの場所に来た彼女を・・・・ゼロスは殺したのだ。

 既に法衣姿に戻っていたゼロスを彼女は青年だとは思わなかったであろう。

 それが幸福なのか不幸なのか。

 彼女は幽霊として話の口にのぼる。

 殺されたことを恨んでなのか、青年に会いたいからか。

「そろそろ帰りましょうリナさん。風邪を引きますよ」

 さすがに体が冷えていたのか、ゼロスの言葉にリナか頷く。

 あれだけ苛立った想いをリナから受けたいと思うのはなぜだろう。

 そして自らも抱いているのはなぜだろう。

 リナと共に歩きだそうとした足がふと止まった。

 湖の方を振り返る。

 そこには白いドレス姿の女が立っていた。明らかに人外のものだ。

 あのとき出会って間もない自分を好きだといった彼女をどれだけ愚かだと思っただろう。

 しかし今なら分かる。たとえ刹那の出来事でも、心動かされることもあるのだと。

「けれど僕が好きなのはあなたではないのです」

 呟く。

「さようなら、チェリイさん」

 彼女の姿はゆらっと揺らめく。

 ゼロスは再びリナの向かったほうに歩きだした。

 そして二度と振り返らなかった。
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