樹海

露蕗


 苔むした大木に背を預け、ヴァルガーヴは大きく息を吐く。

 かれこれ30分近く、荘厳としか言いようの無い、空は晴れ渡っているのにじっとりと暗く澱んだ空気の漂うこの樹海の中を走りつづけていた。大地を覆い尽くすシダ植物や苔に足をとられ、針葉樹の葉や貧弱な木の尖った枝に体中を傷つけられ、青臭い空気は肺を満たしている。

「はあ・・・っ・・・な・・・何なんだあの・・・女・・っ」

 呼吸を整えながら手の甲で顎をつたう汗を拭い、ヴァルガーヴは必死で意識を集中させ、瞬間移動で深い樹海を脱出しようと考えた。だが張り詰めた静寂を破るかのように白い手が彼の腕を遠慮がちに掴む。

「―――見つけ、ました」

 集中力の途切れたヴァルガーヴはぎょっとして掴まれた腕の後方を振り返る。そこで自分と同じく荒い息をつくのは、想像していた通り、フィリアだった。その表情は硬い。

「どうして逃げたのですか?

 あなたが『世間知らずのお嬢さん』を馬鹿にすることはあっても、恐れることはないと

 思っていたのですが」

  ヴァルガーヴはどう返答するか一瞬悩み、間を持たせるためにそっと掴まっている手を振りほどいた。

 確かに、俺らしい行動じゃねえ。

 憎むべき相手を前に、背を向けるとは。

 たとえ勝ち目が無くとも、牙を剥き出し鋭い視線を向けたはずなのに。

 汗を拭った手をがんがん痛む額にあて、フィリアを思い切り睨みつけてみる。だが、崎に目を逸らしたのもヴァルガーヴだった。

「・・・あんたを見ていると、苛立って仕方ねえんだよ。

 俺は・・・この世界を終わらせなければならない。下らない世界を廃棄し、浄化して永遠に続く平穏を手に入れることだけを願い続けてきた。

 滅ぼされたあげく歴史の影に葬り去られた我らが一族、そして俺にあらたな命を授けたガーヴ様のために、俺は絶対に永遠を作り出すと決めたんだ。 

なのに・・・あんたが俺を止めようとする時だけ心が揺らいじまう。この俺が悩むんだぜ?苦しむんだぜ?まったくお笑いだ・・・」

 くっ、とヴァルガーヴは自嘲し、今度はフィリアをまっすぐに見つめた。その目線には、怒りも侮蔑も、彼がいままで彼女に吐き出しつづけてきた激しい感情はなにひとつ滲んでいない。

「―――お嬢さん、あんたさえいなければ、俺の願いは叶うんだよ」

「・・・私を憎むのですか?」

「ああ。憎んでいるさ。心の底からな」

無表情を装うヴァルガーヴ、静かなダークブルーの瞳が少しずつ怒りに染まってゆくフィリア。向かい合って立つ二人の背丈はほとんど変わらない。重くひんやりとした空気が二人の汗を冷やす。

 腰のあたりでぶるぶると震えていたフィリアの右手が、ヴァルガーヴの頬に振り下ろされた。葉擦れ以外は沈黙を守る樹海に、乾いた音が響いた。彼は動かない。

「―――ふざけないで。

 あなたが、私さえいなければ世界の浄化なんていう下らない事をためらいなく行えると言ったように、私だって・・・私だってあなたさえいなければ!!

あなたさえいなければ、私は何も知らない世間知らずのお嬢さんで一生を終えたでしょう。火竜王を信じ、教え込まれた正義だけを信じ・・・何も知らない私は、それで幸せでした。あなたは、私の夢を奪った。

ヴァルガーヴ。私は、あなたを、憎んでいます」

肩で息をし、一言一言フィリアは吐き捨てた。怒りの滲んでいた目は、涙で潤んでいる。ヴァルガーヴの表情がかすかに翳り、眉がつりあがる。

「お嬢さん。あんた・・・傲慢だよ」

「私が傲慢!?

 ・・・あなたこそ、傲慢で、押し付けがましい夢にしがみ付いているだけ・・・。

 ヴァルガーヴ、もう止めて下さい。あなたは哀れだわ」

「なんだと・・・?」

「あなたの望みは、倒れていったあなたたち古代竜族のためでも、魔竜王ガーヴのためでもない。ヴァルガーヴ、あなた自身だけがそれを望んでいるのよ。

 あなたは、孤独に耐えられなくなった。虐げられ、絶望を塗り重ねるだけの自分の一生に嫌気がさした。それだけです。不幸を引きずりながら永遠に魔族として生き続けなければならないことを恐れ、他人を、世界を巻き込んで平穏に浸ろうとしているだけです。

 なのに・・・あなたは自分の欲望を、死者の遺志とすりかえた。

 それこそがあなたの傲慢では―――――っ!!?」

「黙れ!!」

 ヴァルガーヴの瞳が怒りに燃え上がり、フィリアに襲い掛かると彼女の首筋に両手を絡め、長い指を食い込ませていく。尖った爪が皮膚を破り、血の筋が生まれる。

「あ・・・ぐう・・・っ・・・」

 潰れた声を押し出しながらも、フィリアに抵抗の色は見られない。

 そうだ、そのまま殺してしまえ。

 首をねじ切り、目をえぐり、肉を噛みちぎれ。我らが一族の無念をこの女に与え、屍を黄金竜に突き返せ。

 これがお前たちの犯した大罪だよ、と。

 まともに働いていないであろう思考回路から声がする。自分の声のような気もするし、一度も聞いたことの無い声のような気もする。その声に導かれるままヴァルガーヴは手に力を込めたが、フィリアは何の感情も見せずに彼と目を合わせつづける。真意をも見透かされるような視線にヴァルガーヴは恐怖を覚え、同時に「声」は聞こえなくなった。

「・・・これが・・・俺の傲慢だというのか・・・」

 自分でも気づかなかった。世界の浄化と再生が自分の本音ではなく、ただの建前にすぎなかったことに。古代竜の名のもとに、魔竜王ガーヴの名のもとに。・・・誰の遺志でもなかった。ただ、自分だけがそれを望み、夢として抱いていた―――。

 ヴァルガーヴの手が力を失い、フィリアを解放する。その瞬間フィリアの膝はかくり、と折れて彼女の体はその場に崩れたが、倒れこむ寸前にヴァルガーヴが抱きとめた。全身が弛緩し、両腕はだらりと垂れているが瞳だけはまっすぐにヴァルガーヴを見つめている。

 首筋に残る赤い痣と血の固まり。この女は死んだのか。ヴァルガーヴは目を逸らさずに、フィリアの唇が動くのを待った。

 やがてその血の気を失った唇はわずかに開き、激しく咳き込むとフィリアはゆっくり腕を持ち上げてヴァルガーヴの頬を両手で包んだ。

「抱いてください。そして巫女という名の私を殺してくれるのなら・・・あとは、残った私をどうしようとあなたの勝手です」

「な・・・!!?」

 フィリアの手を引き剥がすことも忘れ、ヴァルガーヴは目を見開く。フィリアの口元が笑みの形を作った。

「私は2人なんです。あなたの存在によって夢を奪われ、あなたを憎んでいる黄金竜の巫女としての私。あなたが憎んでいるのも、こっちの私でしょう?もうひとりは、あなたを愛してしまったただの女としての私がいます。

このアンビバレンスな思いを昇華して、私は私として死にたい。

 あなたは私の夢を壊したけれど、同時に新たな夢を作ったわ。

 だから・・・一度。たった一度でいいんです。そしたら・・・!!」

 フィリアの手がヴァルガーヴの頬を離れ、しなやかな腕が彼の首に絡みつく。そして彼女と顔が触れそうになった瞬間、ヴァルガーヴの手は彼女の唇を押さえた。

「んん・・・・!?」

 フィリアの紅潮した頬を、涙が滑り落ちる。

 彼女の言葉に嘘は無い。

 彼女を見ていると心が揺らぐ原因にも、気づいている。俺もまた、彼女を抱くことを本当の夢としていたのかも知れない。この気持ちにも多分、嘘は無い。

 それでも。ヴァルガーヴにはフィリアを抱くことができなかった。

 抱いてしまえば・・・もう戻る道はないというのに、後ろを振り返ってしまうだろう。そして泣くのだ。古代竜の一族を目の前で失った時の、魔竜王ガーヴの消滅を知った時の無力感と悔やみきれない後悔に再び涙を流し・・・もう立ち上がることもできないだろう。

 これ以上フィリアに見透かされるのは、恐ろしいことだった。

 だが、フィリアはヴァルガーヴの手を引き剥がし、叫ぶ。

「ヴァルガーヴ!!私は・・・あなたを止める方法がこれしか思いつかないんです!!

 私は・・・あなたに滅んで欲しくない!!」

 腕の中で震え、泣きながら叫ぶ少女は、自分よりやけに大人びて見えた。

 彼女自身をかけてまで守られる価値など、どこにも無いというのに。

「・・・どうしようもねえお嬢さんだな・・・」

 ヴァルガーヴは意を決してフィリアの顎に指をかけ、わずかに上を向かせる。

「目、閉じろよ」

 言われた通りにフィリアの瞼が落ちると、温かな涙が再び溢れ出して頬を濡らす。

 ヴァルガーヴの唇がフィリアに落ち―――だがそれは彼女の唇を避け、涙の伝う頬への口づけだった。

「どうして・・・」

「これが、あんたの為だよ」

 言いながら、ヴァルガーヴはまだ力の入らないフィリアの体をそっと大木の根元に下ろし、無理やり笑って見せた。さぞかし情けない顔をしているんだろうと思うと、自然に自嘲がこみ上げてくる。小さな子供に戻ってしまったような気分がする。

「お嬢さん、あんたはあんたなりの正義を貫けばいいさ。俺は、俺なりの正義を貫いてみせる。それならば俺の最後に待つものが滅びであったとしても・・・あんたは許してくれるんだろう?」

 ヴァルガーヴの問いにフィリアは答えず、視線を下げて彼の唇の痕を白い指先でなぞった。その表情は成熟した女性そのもので、ヴァルガーヴもそれきり何も言わず、彼の姿はかき消えた。

 フィリアが笑っていたのか泣いていたのか、ヴァルガーヴは知らない。


 約3ヶ月ぶりに書きました、「混沌の館」管理人様に捧ぐヴァルフィリです。

 いつかはここにヴァルフィリ投稿させてもらおう・・・と思っていたところ、ふぉおさんとの賭けに惨敗しまして、嫌でも投稿することになっていました。(笑)そうだ、キリ番取ったからまた小説を献上しなくては・・・。

 以前「人見蕗子」名義で投稿したんですが、同一人物が書いたとは思えないほどにダークでシリアス、おまけに据え膳食わぬ男の恥ヴァル(by熊野さくらさん)です。私の書くヴァルはいっつも気迫が足りない・・・スイマセン!!

 今回の小説はCoccoのアルバム「ラプンツェル」からイメージを膨らませて書きました。特に「樹海の糸」という曲を参考にしたので、本編となんのつながりもなく舞台が樹海となってしまいました。(汗)個人的には、9〜14話のあたりがこんな感じだったらいいなーなんて思っていたり。余談ですが、樹海をリアルに描くために富士の樹海のニュース見ていたらモザイクなしの自殺体と対面するという怖い目に・・・。

 それでは。今年はいっぱい投稿したいな〜という淡い野望を抱きつつ。