水鏡2 

風姫 翠


「フィリア・・・フィ〜リ〜ア!!!あんたいい加減にしなさいよ!!」

 

 夕食の時間となってもいっこうに部屋から出てこようとしないフィリアに苛立ったリナは、鍵の掛かった扉を破らんばかりの勢いでドンドンと叩く。しかし当然返事など返ってくるはずもない。渡り廊下に並ぶ窓ガラスは夕日をまっすぐに受け止め、なすすべなく廊下に立ち尽くすリナたちを紅く染めている。

 

「・・・あんたあたしの話聞いてなかったの!?いくら温厚なあたしでも、いい加減キレるわよ!!そしたらこんな安宿のひとつやふたつ、10秒たらずで火の海に・・・」

 

「充分キレてるぞ。リナ」

 

 ゼルガディスの言葉にぎぎぎぎ・・・と歯軋りするリナ。4つほど向こうの部屋からシーツを抱えたベッドメイキングの女性が絶妙のタイミングで出てきて、リナの暴言に引きつった笑みを浮かべている。アメリアとガウリイがフォローのつもりで彼女に引きつった笑み(頬には一筋の汗)を向けたとき、扉の向こうからざらついた声がかすかに聞こえた。

 

「―――勝手にしてください」

 

 あまりにもフィリアらしくない、投げやりな言葉。アメリアは思わずリナを押しのけ、扉に顔を押し付けて喋る。

 

「フィリアさん、リナさんはフィリアさんのことが心配だから言ってるんですよ!!私だって、ゼルガディスさんもガウリイさんも心配しているのに・・・。

 

 そんな投げやりなフィリアさん、らしくないです!!以前はもっと、毅然としてて、最後はちゃんと自分で全部決めたじゃないですか!!誰よりも他人のことを考えて動いていたのに・・・」

 

「・・・それは、私が巫女だったから・・・私はもう巫女でも何でもありません!!ヴァルガーヴの前でそう言ったでしょう!!?」

 

 泣きすぎて潰れたフィリアの叫び声を聞き、アメリアは再び言葉を失い、服の裾をきゅっと握り締めた。

 

「―――分かったわよ、フィリア。もういいわ」

 

 食堂にみんないるからね、とリナはつぶやき、アメリアの肩を抱いてその場を離れた。その後ろについたガウリイとゼルガディスがちらちら扉に振り返るのを気にしつつも、止めさせる言葉すら唇に乗せられなかった。正直に言うと、あまりの怒りに声ひとつ上げられなかったのだ。あの聡明で美しいフィリアをここまで自暴自棄にした、ヴァルガーヴを思うと。

 

「リ・・・リナさん・・・なんか手が震えてますけど・・・」

 

 アメリアの肩にまわされていた手は服に指が食い込み、確かにぶるぶる震えている。

 

「むかつく・・・あ〜もうむかつくわ〜ヴァルガーヴ!!そーよだいたいアイツとは最初から馬が合わないっていうかなんつーか・・・とにかくいけ好かないヤローだったのよ!!エロ腰!!露出狂!!アメリカンクラッカーーーーー!!!」

 

 食堂に向かい、席を確保しながら火を吐かんばかりの勢いでヴァルガーヴの悪口をまくし立てるリナを、誰も止めることなどできない。すでに夕食を開始しているいくつかのテーブルの客にじろじろ見られたが、勿論そんなことを気にするリナではなかった。

 

「な〜にが『俺の望んでいるのはこの世界の浄化だ』なのよ!!男だったら世界征服でも狙ってりゃいいのに・・・まったく顔に似合わず女々しいヤツ!!それにガーヴ様ガーヴ様ってうるさいの何の・・・どーゆー関係だってのよ!!」

 

 直後、厨房の奥から大きなくしゃみが聞こえたが、リナたちは気にも留めなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「う・・・っく・・・・・?」

 

  泣きつかれて眠っていたらしい。ベッドにうつぶせになり両手でぎゅっと枕を握り締めていたフィリアはゆっくり体を起こした。あれほど気に障った光に満たされた部屋が、今は濃密な闇の気配に沈みこんでいる。

 

「また・・・一日が終わってしまうの・・・?」

 

 フィリアは胸元を握り締める。そうしなければ、ふたたび涙と嗚咽がせり上がってきそうだった。ヴァルガーヴがいなくなってから、もう8日目になってしまう。朝が来れば。時が過ぎれば過ぎるほどフィリアの焦りと不安は大きくなってゆく。悔やん

でも悔やみきれない、信じたくない事実がどんどん重くなってゆく。ヴァルガーヴの消滅。不在。

 

 電気もつけず、フィリアはベッドに腰掛けたまま大きく溜め息をつき、そのときはじめて頬がまだ濡れていることに気づいた。

 

(夢の中でも、泣いていたのかしら・・・。本当に、リナさんの言うとおり。私は馬鹿だ)

 

 浅いまどろみの中で、いつ終わるとも知れない長い夢をみていたことは覚えているのだが、内容はよく分からない。いままで経験してきたことの全てがぐちゃぐちゃに絡み合ってほどけない糸になっていつか失速して果てるような、救いようのない夢だった。

 

 闇の中でも、自分がどれだけひどい顔をしているか分かる。乾いた涙と新たに流れ出した涙でこわばる肌、張り付いた髪。熱をもち腫れた瞼にがらがらの喉。自分のみっともなさを確認するうち、数時間前の醜態を思い出してやりきれない思いにかられた。おさえようのない自己嫌悪。

 

「・・・もう!!」

 

 両手の握りこぶしを枕に叩きつけ、同時に頭から倒れこむと、ばふっと枕の空気が抜け、日なたと埃くささが混じりあった匂いがした。身動きひとつしないフィリアの耳は、様々な音を拾う。下の食堂の喧騒、表の旅人や馬の足音、店の主人同士の立ち話。自分だけが世界から隔絶され、捨てられたような孤独感にさいなまれて耳を塞ごうとした時、かすかな水音に彼女は気がついた。

 

(水の流れる、いいえ、こぼれ落ちる音・・・?)

 一瞬耳鳴りかとも思ったが、この音を聴いて心が信じられない程に静まったのは確かだったので、フィリアは黙って耳を傾けていた。しかし、その音が窓の向こうから聴こえて来ることに気づいたフィリアはもう一度ベッドに身を起こし、カーテンを開けた。すっかり日が沈み、部屋の中よりも濃い闇に浸された町並みの中から、水の流れる何かをフィリアは見つけだせない。

 

―――どうしても見たい。流れる水を。そして触れたい。それは何よりも神聖で、私を癒してくれるかも知れない。

 

 今外へ出ようとすれば、確実に食堂にいるであろうリナたちに見つかってしまう。

フィリアは迷うことなく窓を開け、下に人や危険物は無いか眼を凝らす。幸い部屋の窓側は表通りではなく細い路地と廃屋ばかりのようだ。そして都合よく、窓の斜め下には崩れかけた塀がある。フィリアはスカートをたくし上げると窓から身を乗り出し、右足を思い切り伸ばすとちょうどよく塀の上に乗った。だが、左足がどうしても届かない。

 

「あ〜も〜・・・」

 

 業を煮やしたフィリアは反動をつけ勢いよく外へ飛び出し・・・案の定体は塀の上で止まらず、バランスを崩しそのまま塀の中へと落下した。

 

「あ・・・ら・・・・!?あああああああ!!!!!」

 

 ずがん。

 

 頭から落ちたかと思いきや、飛び込み前転状態で背中から落ちたフィリア。ショックで声も出せずにぱくぱくあえいでいたが、その耳に再び水音が聞こえる。

 

 思わず背中の痛みも気にせずにがばっと起き上がったとき、紺青の世界に一条の柔らかな光が降りた。雲の中からわずかに、月が顔をだしたのだ。そして柔らかな光は、塀の更に向こう側へ出る煉瓦道を照らし出している。

 

(・・・導き・・・?)

 

 神聖なものを感じながら、フィリアは影踏みをするように照らされた小道を歩く。

水音がどんどん近くなり、小走りで進んでいくと目の前に突然広場が現れた。

 

「こっちは裏通りのはずでは・・・?」

 

 僅かな光を頼りに周りを見渡すが、この広場に出る道はどれも人ひとりやっと通れるほどの狭さしかない。しかし誰一人いない闇に満ちた広場は手入れが行き届いていて・・・真ん中には石造りの小さな池がある。それこそ、フィリアが求めていた「水音」の出所だった。

 

 池の端には今にも崩れ落ちんばかりの古びた竜の像があり、その口からちょろちょろと水が落ちて池の水面に波紋を作っている。遥か昔はさぞかし荘厳な、信仰の対象とも呼べる竜だっただろうが、今は心を癒すどころではない、哀しいオブジェ。

 

だがフィリアの視線は釘付けのままだった。

 

 池の中に、人影があった。男か女かも分からない。身長はフィリアと同じか、もう少し大きいくらい。フィリアに気づいていないのだろうか、そのしなやかな手は像をいとおしげに撫で続けている。原型をとどめぬ竜の像に対し、最愛の恋人のように振舞う細い肢体。

 

(誰・・・?)

 

 せめて水に映った顔でも見たいと思ったが、水鏡は人影の正体ではなく天空のかすかな月を映し、乱反射で何も分からない。その影を見つめるうち、フィリアの記憶はひとりの男を呼び覚ましていた。―――ヴァルガーヴ。あの細い肢体は、しなやかな腕は、あまりにも似すぎている。

 

 ドキン。ドキン。ドキン。

 

(まさか・・・彼はもう、どこにも・・・・・)

 

 水音が心臓の鼓動に打ち消される。闇の中、必死に凝らしていた視界に紗がかかり、膝がかくん、と折れる。

 

「何これ・・・・っ・・・」

 

 体に力が入らない。

 

(・・・あれは・・・?)

 

 視界が反転する中、フィリアの目に留まったのは像の翼だった。たいていの竜の翼は一枚の皮をぴんと張ったものなのに、像のそれは鱗のような凹凸が彫られているように見えたのだ。フィリアの知る限り、その翼をもつ竜族は一種しかない。古代竜。

 

 心臓の音が一層激しく耳の奥で鳴り響き・・・フィリアの意識はそこで途切れた。

 

 

 

《続く》