水鏡5

風姫 翠


「ん〜・・・わっかんないわね〜・・・・」

 ベッドに体を投げ出したリナが不機嫌そうにつぶやいた。ぱんぱんに膨れたお腹をさすりながら。

 結局、女主人と限りなくヴァルガーヴに近いウエイターの話を総合しても、彼がヴァルガーヴであるという確証も、逆に全く他人の空似である確証も得られなかった。つまり、依然として確立は半分。ヴァルガーヴか、ヴァルガーヴじゃないか。

―――あれは、確か7,8日前の事さ。あたしが裏口で届いた野菜を確認してたら、この子が倒れていたんだよ。傷自体は浅いようだけど全身血だらけで、運び込んで治療したらまる一日眠っててねえ。起きたら自分の名前すら覚えてなかったんだから。こんな傷だらけなのに厨房にいたのは、この子が働かせてくれって頼んだからさ。まだ休んでていいって言ってるのに・・・。足とお腹の傷がちょっと深いみたいでね、特に足なんてまだ血が滲んでるし・・・。

 気絶している時?いや、確かにうわごとみたいにずっと何かつぶやいていたけれど、全然聞き取れなかったよ。ああ、でも、目覚めた瞬間にはこうはっきり言ったんだ。

「どうして俺は生きている?」ってさ。

 あの時は傷の痛みや発熱なんかもあったけどすごい表情でねえ。鬼みたいな険しい顔をしてて、ヤバイ人かとは思ったけれど、放り出すことなんてできないし・・・。まあ、今はそれなりにいい顔してるからね、そこまで危ない事はやってないだろ。宿屋のおかみなんてやっているとねえ、人を見る目だけは一人前になるもんだよ―――

 そう言って軽快に笑う女主人に、一同は引きつった笑みを返した。本物のヴァルガーヴなら、「危ない事」どころか世界そのものを破滅させようとして最後の最後で止められたのだから・・・。

 ウエイターは終始寡黙に徹し、女主人の話に合わせて軽く頷く程度だった。

 彼が怪我人であることを考えると無理やり詰問するわけにもいかず、仕方なくリナ達は昨日と同じく時間のズレた朝食を食べて引き下がるしかなかった。

「申し訳ありません。本当に・・・何も思い出せないんです。俺が誰で、どうして此処にいるのか」

 食堂を去り、部屋に戻る時に青年に掛けられた言葉がよぎった。あの声はヴァルガーヴのものだが・・・心底すまなそうに眉を下げたあの表情、あれがヴァルガーヴに出来る顔だろうか・・・・。

「でもリナ、あいつはヴァルガーヴだと思うぜ、おれは。

 リナの魔法にどうやって耐えたのかは分かんないけどさ、アイツ、強かっただろ?だからほら、ふっとんだだけで実は生きてて・・・なんてありがちだろう?」

 同じく出っ張ったお腹を軽く撫でながら、ガウリイが言う。

「ああ・・・最後のヴァルガーヴは神と魔の融合体だった。神魔融合魔法に耐える事も可能だったかも知れんな・・・」

 全員で話し合おうと思ったのに、重い沈黙が部屋を満たす。

 リナが一番気に掛けている事はヴァルガーヴ云々ではなく、再び元気を失ってしまったフィリアのことだった。食事もほとんど食べなかったし、また顔を伏せたままになっている。

(昨夜私が見たのは・・・やっぱり夢ではないはず。あのひとは、本当にこの街にいたのだわ。

 でも、あのウエイターはヴァルガーヴじゃないのかしら?私が月明かりの下で、水鏡で見たのは・・・あのウエイターである事は確かよ。でも、それがあのひとなのかどうか―――)

 フィリアの心の中では、再び昨夜の夢とも現ともつかぬ映像がフラッシュバックしていた。分からない。もやがかかっているように先が見えない。頭が重い。

「・・・すみません、私、もう一度おかみさんと話がしたいんです。

 ちょっと聞きたい事があって」

「一緒に行かなくても大丈夫ですか?」

「ええ・・・大丈夫です、アメリアさん」

 居ても立ってもいられず、フィリアは廊下に飛び出し小走りで女主人の元へ走った。

 

 

「あ、あの・・・・」

 昼食に向けて下ごしらえに追われている厨房に恐る恐る声を掛けると、女主人はさっと振り返って微笑んだ。

「おや、さっきのお姉ちゃんかい。まだ聞きたい事でも?」

「はい、ちょっと・・・。お手数掛けて申し訳ないのですが・・・」

「気にする事はないよ。あたしだって、あの子の身元が分かった方がすっきりするし」

 女主人はエプロンで手を拭きながら、フィリアの隣に立つ。

「あ、今回は関係ないんですけれど・・・あの、この近くに小さな広場はありませんか?こう・・・大通りじゃなくて狭い裏通りの道が集まっていて、中央に古い噴水のような・・・」

「ああ、あるよ!!

 お姉ちゃん、どうして知ってるんだい?あれはこの辺に長く店を構える者しか知らないと思ってたがねえ。

 この宿屋の裏口をまっすぐ行って、低い塀垣とか廃屋とか色々越えなきゃいけないけどね、ちょっと神秘的だろ」

 やっぱり、あれは夢ではなかった。頬が紅潮してゆくのをフィリアははっきり感じる。

「あの、それで・・・あの像、竜のオブジェがあるでしょう?

 あれが何竜か分かりませんか?」

「何竜か?」

 女主人は驚きの声をあげ、腕組みをして考え込んでしまう。

「うーん・・・そこまでは考えた事なかったねえ。

 あれは本当に古いものでね、あたしの家は代々ここに住んでいるけれど、ひいおばあちゃんもそこまでは知らなかったし・・・この辺りの人は竜神様としか呼んでないよ。何でも、遥か昔に同族の竜に奇襲を掛けられて全滅した悲劇の一族らしいんだけれど・・・1000年も昔の話じゃねえ。大体、崩れかけてて形もはっきりしないし、唯一鮮明な翼の部分なんて、他の竜族とは違って鱗みたいになってるし。

 単なる想像で作られたのかもねえ・・・」

「悲劇の・・・・」

「ああ、元々はもっと西側に住んでいた竜なのにどんどんこっちへと追い詰められて、この辺りは一面死骸に埋まっていたらしいよ。

 でも、本当に伝説にしか過ぎないし。半信半疑だよ、あたしだって」

 此処でコックが女主人を呼び、話は終了せざるをえなかった。礼を述べたフィリアは戻りがけにそっと厨房を覗き見たが、そこにはあの青年の姿は無かった。朝の一件で足の傷が悪化してしまったのだろう。

 ここで、ようやくフィリアは自分がヴァルガーヴにめぐり合えても、そこに単純な喜びだけが生まれるのではない事を思い出していた。

 自分達、黄金竜と古代竜は、遥か昔からの因縁で結び付けられていたのだ。ヴァルガーヴの打ち捨てられた絶望と孤独と憎しみ、フィリアのヴァルガーヴへの同情、そして贖罪の思いは決して結びつこうとはせず、すれ違い続けていた。

 もし再び出会うのならば・・・今度こそフィリアはずたずたに傷つけられ、ヴァルガーヴは永遠の孤独を背負うのだろう。このまますれ違ったまま、その手を握り合えないままでいいのではないか。一瞬そんな考えが過ぎったが、それを打ち消したのもまた、ずっと前からヴァルガーヴに対して抱いていた思いだった。

 壁に持たれかかり、組み合わせた両手をぐっと額に押し付ける。

 

 ・・・後悔はしない。

 会いたい。

 

 

 

 

《続く》