水鏡6 

風姫 翠


 会いたい。

 

 願いとも祈りともつかない思いを胸の中で繰り返し、フィリアはようやく壁から背を離して顔を上げた。目が潤んでいた事に気付き、慌てて両目を強くこする。

(泣いちゃダメ。ここで泣いてしまったら・・・会えないかも知れないわ)

 ヴァルガーヴと向かい合うとき、フィリアはいつも泣いていた。彼への同情と、自分達の一族の行った大罪への後悔と、贖罪と・・・様々な感情がもつれ、言葉ではなく涙ばかりをたくさんこぼした。その度にヴァルガーヴはフィリアから目を逸らし、軽くあしらった。

 まっすぐヴァルガーヴと見詰め合ったのはただ一度、最後の最後、神魔融合魔法の発動を決意した時だけ。あの時、フィリアの目に涙は無く、ヴァルガーヴの表情に誤魔化しは無かった。

 だから・・・泣かなければ、叶うような気がするのだ。

 目元をもう一度手の甲で拭き、深呼吸してフィリアはリナ達の待っているだろう部屋の扉を開け・・・彼女の足はそこでぴたりと止まった。

 4人は部屋中を駆け回り、出発の準備を整えていたのである。

「あ・・・の・・・。みなさん、何を?」

「何って、行く準備に決まってんでしょ!!」

 皮の手袋を装着しながら、顔も上げずにリナは答える。

「・・・前から言ってるけどさー・・・。

 あたしはヴァルガーヴなんてどーでもいいのよ!!そりゃのこのこ帰ってくるならあの生意気な顔に一発・・・いや5発はぶん殴るけど。あのヴァルガーヴのよーなそうじゃないよーな兄ちゃん見てるとムカムカするだけだし・・・それに!!」

「そ・・・それに!?」

 すっかり身支度を整えたリナがアップで迫ってきて、思わずのけぞるフィリア。

「早く帰らないと、姉ちゃんに殺されるのよ〜!!!!!」

 ちょっぴり涙声で、窓ガラスが割れんばかりに絶叫してみせる。

「あんたのセンチメンタルに付き合ってて、すっかり忘れてたのよ!!早く姉ちゃんに報告しないとどんな目に遭わされるやら・・・」

 史上最強の姉を思い出し、ぶるっっと身震いするリナ。

「そんな人には見えませんでしたけど・・・。

 確かに気の強そうな感じはありましたけど、はっきり言ってリナさんのほうがよっぽど・・・」

「あんたに姉ちゃんの怖さが分かるモンですか!!フィリアの馬鹿ぁぁぁぁぁ〜!!!」

 腹式呼吸で一気にまくし立て、力尽きたらしくリナは床に泣き崩れる。

「・・・そんな訳で・・・おれは特に予定は無いんだけど、リナが『戦いが終わってから、ゆっくりさぼってたんじゃない事を証明してぇ〜!!』って泣きつくから・・・一緒に帰ってやらなきゃいけなくてさ。

 光の剣に代わる剣も探さないとダメだし・・・」

「ガウリイが証拠になるとは思えないんだけど・・・アメリアもゼルもそれぞれ行くべき所があるしね。なんとか頑張ってみるけど〜(トーンダウン)」

「え!!じゃ・・・じゃあアメリアさんもゼルガディスさんも・・・?」

 慌ててフィリアはふたりに視線を向けるが、やはり出発の準備はできていた。

「ああ・・・フィリアには悪いと思ってはいるし、あの怪しさ大爆発のウエイターも気になるが、俺には時間が無い。幸い外の世界に出られたのだから、一刻も早くクレアバイブルを探してもとの体に戻りたいんでな」

「私は、元はといえばリナさんに拉致されたも同然で連れて来られたので・・・父さんが心配していると思うんです。多分姉さんも帰っていないと思うし・・・」

「そうですか・・・そうですよね、皆さんには戻る場所と、求めるものがあるんでしたね」

 向けられた視線に耐えられず、フィリアは弱々しく笑ってから目を伏せ―――あっ、と声を上げそうになった。

 リナの、ガウリイの、アメリアの、ゼルガディスの、同情まじりの視線。すまなそうな表情。

(私がヴァルガーヴに向けたのは・・・この顔ではないの?この目では・・・)

 巫女という役職も、火竜王を信仰していた一族を失った今、自分はヴァルガーヴに一番近い位置に立っている。それはずっと前・・・ヴァルガーヴが異界の魔王と融合し、再び戻ってきた時から気付いていた。「あなたと同じになりました」と彼に呼びかけた。でも、結局何も分かってはいなかったのかも知れない。想像を絶する苦痛と孤独、激情。文字通り「お嬢さん」であった自分には無縁すぎて、何も感じてはあげられなかった。そればかりか、表面だけ同情して、分かったようなフリをして―――ヴァルガーヴは、傷ついただろうか。自分から目を逸らしたのは・・・このいたたまれなさをあなたも感じたから?

「フィリア、あんたはどうする?

 あたしとガウリイと一緒にゼフィーリアまで来て、姉ちゃんの説得手伝ってくれる?それともアメリアに付いて行く?セイルーンならフィリアの気質にも合うんじゃない?

 あ、なんならこのままゼルとアメリアを駆け落ちさせて、あんたがセイルーンの女王になるとか〜」

「な・・・ぬぅわ〜に言ってるんですか!!リナさんっ!!!!」

一瞬でゆでダコ状態になったアメリアが必死で反論する。

「他の黄金竜を頼る気は、本当に無いのか?」

 こちらもちょっとだけ赤くなったゼルガディスの問いに、フィリアは大きくうなずく。

「私は・・・・」

 

 

 

 陽が、高い。

 正午が近いのだろうか、昼でも薄暗い裏通りに唯一光の届く僅かな時間。

 ひとりの青年が、地元の人間しか存在を知らないはずの池の淵に腰を下ろしている。

水面に向けた背中には、時折竜らしき生き物をかたどったオブジェの口部分から落ちる水の飛沫がかかり透明の染みをつけるが、気に留めてなどいなかった。

 束ねていた長い翡翠色の髪を解き、青年は立ち上がってまっすぐに水面を見つめる。包帯とバンソーコーだらけの顔がゆらめく水鏡にはっきりと映し出される、遥か頭上の太陽も一緒に。光は尾を引き、長い金色の道が波紋に沿って現れる。女の髪のような、細く儚い輝き―――。

「ヴァルガーヴ」

 真後ろから突然声を掛けられ、青年は飛び上がらんばかりに驚き、振り返る。何となく予想していた顔ではあった。真昼の光を吸収し、つややかに光る長い金の髪。憂いを帯びた瑠璃色の瞳、どこか張り詰めたような整った顔立ち。

「・・・もう出発されたのでは?」

 ハスキーな声を絞り出し、平静を装うとする。

 先ほど、厨房の隅から見えたのだ。自分の知り合いだと言い張っていた5人組が宿を出て行くのを。だからほっとして・・・厨房を抜け出して此処へ来たのだ。自分の唯一の味方であるだろう、この像の元へ。

「ええ・・・リナさんとガウリイさんはゼフィーリアへ、アメリアさんはセイルーンへ、ゼルガディスさんは元の姿に戻るための旅の続きへ。

 皆、持っているんです。たどり着くべき場所を」

「俺にそんな話をしても・・・」

 フィリアから目を逸らし、青年は宿屋へ戻ろうと彼女の脇をすり抜け・・・しかし、その包帯の巻かれた右手をフィリアはがっちり掴んだ。

「そして私のたどり着くべき所は・・・。

 あなたの側です。ヴァルガーヴ」

 瑠璃色の瞳が、青年の金の瞳をまっすぐに射る。

「何を・・・?」

「誤魔化しても無駄です。皆さん気付いてました!!その上で・・・その上で、全て私に任せると・・・」

 慌てて青年はフィリアの手を振り払うが・・・その武骨な手から包帯がほどけた。現れたのは、手のひらから甲にまで抜けた、痛々しい古傷。

 青年の顔色が変わり、たちまち険しくなっていた表情が翳る。

「ヴァルガーヴなのでしょう?」

―――フィリア、あたし達にとって、あのウエイターがヴァルガーヴであるかどうかなんて、関係ないのよ。人類代表の補欠としては、世界は何も変わらなかったんだもの。そういう意味では・・・あの兄ちゃんは「ヴァルガーヴ」じゃないわ。

 でも、フィリアにとって見れば・・・ヤツはもしかして「ヴァルガーヴ」なのかも知れないわよ。エロ腰ヘソ出しの王子様ってのもゾっとしないけどね―――

 それぞれの道を歩き出す瞬間、リナはフィリアの額を手のひらで包み、こう呟いた。慌てて顔を上げたとき・・・そこにあったのは曖昧な同情交じりの笑みではなく、心からの笑顔だった。そして・・・自分の予想は正しかったんだと確信した。「此処に残って、あのひとがヴァルガーヴなのかどうか確認します」と4人の前で言い切った後も、不安で仕方がなかった。だけどリナの手は手袋越しだったのに余りにも暖かく、フィリアに向けた最後の言葉も温かかった。―――フィリア、幸せになりなさいよ―――。

 青年はフィリアの真剣な顔を見つめ・・・乾いた笑いを漏らした。

「まあ・・・最後まで隠し通せるとは思ってなかったが・・・」

 口元だけを笑みの形にし、振り絞るように言葉を発する目の前の男は、ヴァルガーヴに間違いなかった。左手と額の包帯、両頬のバンソーコーを外すと、そこにあるのは全て古傷だった。

「どうして、私達を騙したんですか?」

「騙した訳じゃない・・・記憶喪失になってたのは本当だ。昨日の夜までは」

「昨日・・・?」

「どうしても寝付けなくて・・・昨日は此処らを一人で散策してたんだよ。自分が誰で、此処が何処なのか全く分からなかったからな。

 それで、偶然この広場を見つけた。

 かすかな月明かりの下だったけれど、俺の目にこの像がはっきり映ったんだ」

 再び池の淵に座ると、ヴァルガーヴは手を伸ばし長い指で像の大きな翼を撫でる。誘われるように、フィリアも隣にちょこんと座る。

「最初は、竜かどうかも分からなかったさ。見てのとおりボロだし・・・なにより、体を覆うのは滑らかな皮膚ではなく鱗だ。お嬢さん、お前だってこれが竜だとは分からなかっただろう?」

「―――お嬢さんって・・・私はもう・・・!!」

 耳元で久しぶりに聞く言葉にフィリアは真っ赤になったが、気にせずヴァルガーヴは続ける。

「だけど・・・こんな像が、俺には気になって仕方なかった。懐かしいような・・・哀しいような・・・。気が付いたら少しでも側に寄ろうとして、池の中に踏み込んでたんだ。それでも何も思い出せねーし、月も雲から見え隠れして光も無いし・・・で、俺は何やってんだろうと思って、戻ろうとした時に・・・お前が立ってた。

 そーだ!!元はといえばお嬢さんのせいで全部思い出しちまったんだよ!!」

 突然ひとりで怒り出すヴァルガーヴの横顔を、フィリアは呆然と見詰める。

「わ・・・私?」

「ああ・・・突然路地から現れたと思ったら倒れるし・・・。

 慌てて駆け寄ったのが運の尽きだったな。アレ以前に記憶が戻ってれば、俺は絶対助けようとは思わなかった。絶対。」

 親指の爪を噛みながら、なにげに恐ろしい事を呟く。

「お前は気絶してるみたいだし、抱き上げてみたら宿の客だったからとりあえず中に運ぼうと思ったとき・・・思い出したんだよ、『お嬢さん』だって。そしたら記憶も全部戻った。俺が誰で、今まで何をしていたか・・・。何故生き残ったかは俺にも分からんが。

 んで、腹が立ったからお前を廊下に置いて・・・一晩考えた結果がコレだ。いっそ全て無かった事にしようとしたが・・・失敗した・・・」

 最初っからバレてたなら俺ってまるっきりアホじゃねーか、と頭抱えてうなだれるヴァルガーヴ。その横で・・・今度は違う意味で真っ赤になるフィリア。

「腹が立ったから・・・って!!?

 そんな理由で私を廊下に放置したんですか!!?それって八つ当たりですっっ!!!」

「それくらいしなきゃこっちの気が済まねーよ。・・・思い出さないほうが、どれだけ良かったと思う?

俺にとっても・・・お嬢さんにとっても」

 真上から太陽に照らされ、古ぼけた足元の煉瓦道にふたりの影は無い。視線を移すところが見つからず、フィリアはヴァルガーヴに目を向け、彼も顔を上げて視線を合わせる。

「私は・・・もう『お嬢さん』なんかじゃありません。

 巫女でも無くなったし、あなたと同じ、ひとりになりました。以前もあなたにそう言った筈です。でも・・・あの時、私はあなたの背負っている痛みを感じる事は出来ませんでした」

「・・・だから、あのまま終わってしまえば良かった」

「いいえ!!」

 ヴァルガーヴは呟きと共に目を逸らそうとしたが、フィリアの濡れた叫び声に引き戻される。彼女の目からは一瞬のうちに涙が溢れ出していた。頬を伝い、雫となって乾いた煉瓦に点々と染みをつける。しかしその目は、ヴァルガーヴから離れようとしない。

「やっと・・・やっと気付いたんです。あなたがいなくなってから。

 もう遅いとは分かってはいたけれど・・・あなたの事を忘れた時などありません!!

 もう一度、あなたの声で、あなたの言葉で聞かせてください!!

 あなたがどれだけ苦しんできたか・・・今の私なら、その資格はあります。私がいくら傷つこうとも、あなたを傷つけたりはしない。だから・・・」

 言葉に詰まったフィリアの涙を、ヴァルガーヴがそっと拭う。

「・・・ここに来て泣くなよ。最後は泣かなかったくせに」

 その言葉で、フィリアの涙はますます止まらなくなる。ヴァルガーヴは、自分を見ていた。最後だけは泣かなかった事を、知っていた。

「ヴァルガーヴ・・・・っ」

「いや・・・『ヴァルガーヴ』はもう何処にもいねーよ。

 ガーヴ様の力を失った今の俺は、古代竜のヴァルでしかない。

 そいつの口からで良ければ・・・何でも聞かせてやるぜ。長い話だが」

「・・・構いません」

「一生かかるかも知れないぜ?」

 問いながら、ヴァルガーヴ―――いや、ヴァルはフィリアを優しく抱き寄せる。その表情は翳り一つ無い、少年の笑顔を浮かべていた。

「一生って・・・」

 言葉の裏に隠れた真意に気付きながらも、フィリアは抵抗せずに笑って見せた。依然涙を流したままで。

「構いません。でも・・・キャラ変わりましたね」

「ヴァルガーヴじゃねーからだよ」

 笑って、濡れた頬にキスをしてみせるヴァル。

 長い夢から覚めるみたい、そうフィリアは思った。

 

 旅立ちの時は、近い。

 

 

 

 

《続く》