彼女のことを考えると、思い出すのはいつも優しくて、そしてどこか儚げな笑顔だ。
物心ついたとき、彼らの一族で唯一大人だった彼女。常に慈愛に満ち、いつも彼らを優しく導いてくれた。
親がいなくても、淋しくはなかった。同じように親のいない仲間と、そしていつも彼女がいてくれたから。
彼女は彼らすべての、姉であり、親であり、教師であり、、、、。
別れたその後も彼らの心の故郷だった。
彼が幼い頃、気がつけば彼の種族に彼女以外の大人はいなかった。
彼より少し年長のものに聞いても知らないという。以前はいたような気がするとも
いうが、はっきりしたことを覚えているものは誰もいない。そのことについて彼女に聞いてみたときの返事は、
「貴方達の御両親は正義に殉じて逝かれたのよ」
ということだった。その声が言い様のない悲しみに満ちていたので、それ以上の追求を彼は諦めた。
それ以外のことに関しては、年令を重ねるにつれて沸き上がる彼らの好奇心に彼女は常に淀みなく答えてくれた。
世界のこと、神のこと、魔力を使うこと、愛するということ、信じるということ………。
おおよそ彼女が苛立ったり、理不尽な怒り方をしたことはなかった。
神《ヴラバザード》の話を聞いたときにはひょっとして彼女がそれ自身なのではないかとすら思ったものだ。
それは彼らの世代(二十数人ほどのささやかすぎるほどささやかな−−そして彼女を除けば唯一の−−世代だったが)に共通する認識であった。
多少の反抗はあったものの、概ね彼女は皆に好かれていたし、何しろ他に頼る大人はいないのだ。
狭いコロニーを嫌って飛び出していったものもだいたい数日すれば戻ってきていた。
そして彼女はそういったものを拒むことなくまた受け入れ、養育した。
永遠に続くのだと思っていた。砂漠の真ん中にたつ奇怪にして荘厳なこの神殿と、
残された子供達と、大人たちの中で唯一生き残った彼女と。
彼らが成人しても彼女の姿が全く変わらなかったから、よけいにそう思われたのかもしれない。
彼らの種族にとって老いとは遥かな月日を経ての話だ。
だが、終局は突然に訪れる。
成人し、一人前の魔力を有し、空を飛ぶことに抵抗がなくなった頃。
彼女は突然に彼らに別れを告げた。
この神殿を出て、カタート山脈に向かえと。そこに彼らと同じ種族のものがいるからと。
彼女は突然に、彼らに巣立ちを要求したのだった。
その時起こった混乱については、もはやおぼろげな記憶の中だ。あるものは嘆
き、あるものは諦め、あるものは彼女に詰め寄った。
けれど、その全てに、彼女はもう救いの手を差し伸べようとはしなかった。
その顔は彼ら以上に苦悩と絶望に満ちていたが、翻すことのできない決意にも満ちていた。
ようやく最後のひとり(それは自分だったかも知れない)が頷いた時、彼女はようやく笑った。不思議なほど安らかに。
あれから何年が過ぎたのだろう。彼らの中にはもうこの場所がどこにあったのかすら忘れてしまったものもいる。
皆、壮年といってよい年になった。カタートでの暮らしは以前と変わらず平和で、
そして以前より活気に満ちている。何人かは伴侶も見つけた。彼にも子供がいる。
偶然見つけた、かつての故郷の神殿に立ち寄ってみたのは、それでも彼女に会いたかったからだ。
だが、半ば予期していたことながら、そこは無人だった。
既に無人となって長い気配すらあった。
魔力によって保護された神殿は時の風化にさらされることはない。それでも建物は
人が住まないというだけで荒れていくものだ。たとえば天井にはった蜘蛛の巣や、埃をかぶった像や。
像。−−《ヴラバザード》の像。
それがかつて彼女が毎日祈りを捧げていた像だとわかって、彼は驚愕した。
毎朝、常に祈りを欠かさなかった彼女。幼い頃から欠かさない習慣だと言っていた彼女の像が。
無惨な姿をさらすバラバラのかけらを彼は呆然と見つめた。
いったい誰が。むろん彼女以外には考えられない。ここに入って来れるのは彼らの
種族だけで、彼女以外にこの塔に残ったものはいなかったのだから。
でも何故。
足もとに転がる欠片の中に、ふと違和感のあるものを見つけて、彼は手に取ってみた。
違和感を感じたのはその色。白一色のこの神殿にはふさわしくない。
それは夜の闇よりも黒い羽だった。
では見間違いではなかったのか。
遠い記憶を思い出し、彼は愕然とする。
あれはもう彼が思春期といってよい年になった頃。同年代の女の子を苛めて、泣かせて、彼女に叱られた日。
なぜそんなことをしたのかは忘れてしまった。多分些細なことだったのだろう。
それでも子供なりに理屈にあわない理屈をつけて反抗してみたりして、神殿を飛び出した。
むろん、行くところなどあるはずがない。日が暮れる頃にはすっかり後悔し、夜遅く、彼女に謝ろうと戻ってきた彼は、
ふと鳥のはばたきのような音を聞いて気がして空を見上げた。
大きな鳥。
そう思った。
そしてそれは彼の頭上遥か高くを飛び越し、そして神殿のもっとも高い塔の一角に吸い込まれるように消えた。
あれ?
あの塔は確か、彼女の部屋があるはずだ。目を凝らしてみると薄い明かりがついている。
彼女はおおむね夜は遅いようだ。小さい頃淋しくて眠れない時、彼女の部屋の扉を叩くと、常に彼女は起きていた。
彼は急いで神殿に戻り、彼女の部屋を目ざした。何かしら不安に駆られていた。
廊下にたって扉をノックしようとしたとき彼女の声が聞こえた。
誰かと話している? いや、何か叫んでいる。泣いている?誰かに何かを訴えているような声が聞こえた。
普段の彼女からは想像もつかない、切な気な、悲し気な声。
対する誰かの声は低い響きで、彼女の声以上に聞き取れない。
しばらく迷い、思い切って扉をノックした。ぴたり、と話声が止んだ。
彼が予期したより早くに扉は開けられた。
普段通りの彼女が顔を覗かせる。
「どうしたの? こんなに遅く」
声も普段と変わりなかったが、彼が出ていったことすら忘れているのは明らかに何かに動転している証拠だった。
「あの………」
誰かきているの? そう問いかけようとして、できなかった。口にしたのは全然別のことだった。
「今日は……ごめんなさい」
きまり悪気な彼の表情を、謝るのが苦手な彼のばつの悪さだと彼女は誤解したようで、優しく笑っていつものように彼を許した。
「もういいからおやすみなさい」
「………うん」
うなづいて踵を返した時、扉の隙間の向こうに何かが見えたような気がして彼は一瞬、目を凝らした。
見間違いではなかった。
あのとき確かにこの羽の持ち主は彼女の部屋にいたのだ。そうしておそらくはこの像を壊したのもまた。
彼女は? 彼女はどうしたのだろう。この像が壊されるのを、彼女は黙って許したのだろうか。
かつて彼らの巣立ちを黙って見送ったように。
あの時見たのと同じ、漆黒の羽を手に、彼は思い出す。巣立ちの日の彼女の笑顔を。夜更けに戻った彼を許した笑顔を。
常に微笑んでいた彼女。
慈愛に満ちた、優しくそしてどこか儚い笑顔。
泣いた顔など想像もつかない。
彼女は女神だった。彼らにとっては《ヴラバザード》よりも神聖な。
自分に言い聞かせて彼はその場を立ち去った。知らぬ方がよいこともある。
例えば
彼らの両親の死についてのことのような。
他人が知れば悲しむだけの真実になど、彼は興味がなかった。或いはないふりができた。
彼らの世代にとって彼女は永遠の女神だ。
その場で拾った黒い羽について、彼はいっさい口外しなかった。
捨ててしまえばよかったのにと後になって思ったが、結局そうはしなかった。
時折、誰にも見せることのない宝箱の中から取り出してその黒い羽を見つめる。
黒は罪の証。そして何ものにも染まらない孤独の証。心の奥に隠した秘密の色。
その色を瞳に焼きつける都度、彼の心にあの日の彼女の言葉が鮮やかに耳もと
に蘇る。
『いつか貴方の元に行きます。でも今はだめ。あの子たちが成人するまでは−−
それまで時間を下さい。私の、一族に対する義務が終わったら、その時は』
義務。愛情ではなく義務。その一言を裏切りだと思うには彼らは全てを彼女に
負い過ぎていた。
『残りの一生を全て貴方に捧げます。この欺瞞と、偽善に満ちた生活を捨てて、
全て。何も隠さず、何も偽らない一人の私として。貴方に全てを』
彼女がどこにいるのか、誰も知らない。
知ってはならない。罪の証は永遠に彼の宝箱に封印され、おそらく二度と一目
に触
れることはないだろう。
その秘密を墓場まで持っていくことを決めて、彼は一人見知らぬ神に祈りを捧げる。
願わくば−−彼女に幸在らんことを。
The End